てのひらを、かえして

知的怠惰の集積地よりお送りする、手斧と料理のふんわりブログ。

誰かに茹でてもらった素麺が食べたい。

そうめんは外食で遭遇することがない。いや、ある地域の皆様には申し訳ないが、自分の環境ではまず遭遇しない。水のきれいな渓谷とかそういうところに出かけると流しそうめんをやっているところがある。祖父の家の近くにもそういう場所があって10歳くらいの頃だったか連れて行ってもらった覚えがある。水がきれいだという割に掛け流しではなくて円形の水路がついたテーブルで、ぐるぐると回転する水にそうめんを流しておのおのがすくい取るという形式だった。子供心にも竹のやつじゃないんかい、とは思ったが、あれは商業ベースに乗せるには大分無理があるなと感じる。竹の節抜くの大変だし、清涼感があるのは青竹のうちだけだし。

美味しんぼの栗田さんのおばあちゃんが夏バテする回、街角で体調を崩した辻占のじいさんを看病するうちにミイラ取りがミイラとなって栗田ババアの方が――――、のあのゆで方は一回まねしてみたい。とても贅沢かつ風流で、食べやすさまで考慮してあるので、どうせならあれで誰かをもてなしたい。どういうゆで方であるかは各自配信等でご確認してくれ。美味しんぼはじじいとかばばあが出る回に味がある。孫の結婚資金を稼ぐためイカで一発当てに来たババアとか、竹藪のジジイもいい。

誰かにゆでてもらったそうめんを食べたのは上の子が生まれたばかりの夏の義実家が最後だ。
実家を出た20年前からそうめんというのはまず自分でゆでるものであり、一緒に食卓を囲むみんなのためにゆでるものでもあった。そりゃ確かに実家にいる頃から土曜の昼なんかのおさんどんを引き受けることはあったがそれはせいぜい袋麺を作るくらいでそうめんをやることはなかった。

そうめんをゆでることには大いなる責任が伴う。
どれほどのそうめんの備蓄があって、家族は何人で、誰がどのくらいのそうめんを平らげるかも把握しておかなければならないし、薬味はネギかきゅうりかかいわれ大根かミョウガかショウガかわさびか。涼しげな夏用のガラスの器も配備していなければならない。そしてこれが大事なのだが、そうめんというのはでかい鍋、おそらくその家で一番でかい鍋を用いてゆでることになる。でなければそうめん同士がくっついて無残なことになる。でかい鍋でたっぷりの湯を使うのは、そうめんをゆでる際にマストだ。

そして、その家で一番でかい鍋を使うのに、その家の台所の主人に了解を得ずに使えるか? という話だ。使えないだろう? でかい鍋にはそういう権力があり、責任が伴う。つまりそうめんをゆでるということはその家の台所を預かり、そこの食卓に並んだ面々のおなかをいっぱいにしなければならない。そうめんは一度ゆでてしまえばそう日持ちも効かずリメイクも難しいので皆のおなかをいっぱいにしつつ余りを出さないという采配が必要になるし、そうめんだけでは不足する栄養素をその後の食事でどう補うかも考えなければならないし、そのデカい鍋とそれに応じたでかいザルをシンクからはみ出させながらも洗って乾かして次の使用に備えなければならない。ナベカマのシマを預かるとはそういうことだ。

ちなみにな、ゆでてもらうそうめんしか食わないやつは知らないことだが、くっついちゃったそうめんは多分おまえのママが食べてる。世界はそれを愛と呼ぶんだぜ。

そうめんをゆでる側に回る、それは自分の自立の一つだったのかもしれない。

その上で言う。誰かがゆでてザルにいれるなり容器に水を満たしてその中で泳がせるなりして薬味もめんつゆも器も準備されて、そうめんをガバリと箸で掴んで思いっきりすすり込んで、まだおなかに余裕があれば「足りなーい」と追加をもらってそうめんだけでおなかをいっぱいにして「ごちそうさまー」をやって畳の部屋で満腹に任せてごろ寝したい。

つまりその、なんだ。夏の一日くらい、肩の荷を下ろしてえなあってだけで、それからの解放のイメージが自分にとってはそうめんなんだろうということだ。