てのひらを、かえして

知的怠惰の集積地よりお送りする、手斧と料理のふんわりブログ。

肩たたき券よりも、水筒洗い券がほしい。

食洗機が導入された今、食器洗いなどものの数ではない。というかもともとそう嫌いな家事ではない。無心で手を動かしていればいつかは終わるのがわかっているし、目に見えて洗い終わった食器が積み重なるのが精神的な報酬として機能している。

水筒の毎日の準備こそが、今一番やりたくない家事のトップである。

単純に手順が多い。
カバー外す、カップ外す、注ぎ口外す、パッキンを
バラす。洗い始める前でこれだ、飽き飽きする。カップ・パッキン・注ぎ口は食洗機にお任せしているが、パッキンが流れていかないように小さいざるも買っている。

水筒という奴は形状も厄介だ。ブラシを使わないと中までしっかり洗えないし、洗った後内部をすすぐのになかなか洗剤が落ちきらない。麦茶なのだからそう言うものだとはわかっていても、毎回注ぐ度に泡が立つのをすすぎ残しによるものではないかと疑っている。

麦茶と言えば別口に麦茶の準備とその容器の洗浄まで必要なのも閉口する。蓋あけて麦茶パック捨てて、水筒と同じくボトルの中まで洗わねばならない。こっちは手が入るタイプのボトルにしているからまだマシ。考えてみれば俺がまだ子供の頃はパックではなくてカップで計量してヤカンで煮出し、麦を漉して瓶に詰めていた記憶がある。そのころから比べたらパックがあって水出しでいいという長足の進歩だ。サンキュー鶴瓶フォーエバ鶴瓶

洗い終わって乾かしても今度は朝にこれをもう一回組み立てて麦茶を注ぎ、カバーを掛けて渡さねばならないのである。朝は忙しいしそれ以外にもやることがあるのにこの組立作業が脳のリソースを食っている気がする、だいたい箸の準備を忘れて出かける前にあわてることになる。

ここまでやって最終的にこの麦茶が全く手も着けられずに戻ってくることもある。気温だとか授業の内容にも寄るので誰かのせいにしても始まらない。また次の麦茶ループに挑まねばならないのだ。俺と麦茶のエンドレスバトル。せめてもの救いは鶴瓶の麦茶はパックあたりで考えるととてもお安いので多少無駄にしても俺の懐はそう痛まない。サンキュー鶴瓶フォーエバ鶴瓶

つまりだな、うだるような暑さの夏の昼下がりに薄暗い畳の部屋で麦茶ックスというシチュエーションはとてもいいものだが、行為に没頭するうちに溶けていってしまった氷もぬるくなったその麦茶も誰かが用意しているということを忘れないで飲みたい。家族に、乾杯。