てのひらを、かえして

知的怠惰の集積地よりお送りする、手斧と料理のふんわりブログ。

はてなブクマカおにぎりアクション部

10/3からおにぎりアクションが開催されるので、今年も参加していきたいという決意表明をおこなっていく。

詳しいルールと開催期間については該当のサイトで各自確認を行ってほしい。わかっておくべきことは期間中におにぎりの写真、自作も購入も問わず、ハッシュタグ付きでX(旧Twitter)等のSNSに投稿すると、協賛企業が寄付してくれてご飯を食べられない子供たちに食い物が届くという実にありがたい話であると言うことだ。なんか今年のレートは1投稿で5食らしい。やったぜ。


最初にこの件を見つけた頃は上の子がまだシャケおにぎりを朝ご飯に食べていた時期で、おにぎりの作成が日課だったので、ニギって食べさせる直前に写真を撮って投稿していた。この頃の親の朝メシはホットサンドにしてたな。ソーセージ3本とチーズとピーマンを挟んで焼いて半分こにして食べてた。

今現在の上の子はがっつりどんぶり飯に目玉焼きとソーセージを食べている。下の子はぎりぎりまでおきてこないから知らん。パパの出勤に間に合わない。

ここ数年はちょうどそのタイミングで長期出張にでており、朝ご飯を現場近くのコンビニおにぎりで済ませるためそのタイミングでとることが多かった。おにぎりの具だが、個人的にはわかめご飯のおにぎりが好きなのでわかめご飯+もう一個で食べることが多い。おにぎりアクションのキャンペーンが始まったことをコンビニで知ることも多い。だいたい連携してキャンペーンを張っているので。

おれだっておなかを空かして困っている子供は少ないほうがいい、何ならそうやって苦しむ子供がいない世の中になってほしい。「やらない善よりやる偽善」とヴァリス王国神官王エトもそう言っていた。

という訳なのだが今年は出張も子供の朝ご飯でもおにぎりにする言い訳がないからどうしようかな。期間中だけ朝ご飯をおにぎりにしようかしら。

代用の代用

家族というものをやっていると親戚というものも生えてくるので、いかんせんそちらの事情とか都合に、こちらをあわせることでしか、こちらと向こうの円滑な関係を維持できない夜もある。具体的には近い世代の子供たちを集めて花火をやろうということになった。ウチの子供たちが習い事からかえってからという運びになったので、そのわずかな隙間に飯を忍び込ませるべくメニューを変更して我が家式の「カオマンガイ」を作った。よくあるレシピをアレンジして炊飯器で炊き込むやり方だが、ワンプレートで出せる上にかきこむだけで食べられるので時短になるであろうとの作戦だった。

ウチのやり方としては炊飯前に味付けとして中華風調味料(ペースト状)をひと匙、チューブのニンニクとショウガを適宜加える、ことにしているのだけれどこの日に限ってチューブのショウガが見あたらず、たまたま何かの用途で買ったふつうの根っこタイプショウガがあったのでそいつで代用、いや本来あるべき正しいマウンドに当番を願った。

至極当たり前な話であるのだが、本物を入れていると炊いている途中の匂いがスゴいことになる。すり下ろして入れた瞬間からもう違うもんね。米に浸水させて水の量を調整した炊飯器の中にすり下ろしたショウガを入れると、チューブはもったりとタレてそのまま居座るけど、ちゃんとすり下ろしたショウガはパッと花が咲いたみたいに水の中に広がってそこでまた匂いが立つ。ちょっと見た目だけでも感動してしまった。もちろん出来上がりの味もすこぶる旨い。

利便性と保存性の観点からいつもはチューブを使っている。それはね、毎日の家庭の食を継続して維持していく為には必要なんです。ほんとに日持ちしないからこう言うときでもないと本物のショウガをすり下ろしたりはしない。しないけれども。たまには、ショウガくらいは本物を用いる手間をかけてもいいのかなあと、そう思う俺の脳裏に海原雄山の顔がチラつく。ええいうるさいぞ雄山。日常生活に落とし込むことができない美食などそんなもの文化と言えるか!

土鍋で作ったカオマンガイ旨そうだな。こんどやろう。

日当たりガチャ

今日はいつもと違って資格関係の更新講習会なのでちょっとJRで遠出している。朝早くコンビニで朝食を買い。いつもと違って運転がないのでこんなことを書いていられる。

乗車する席の日当たりガチャに毎回外れている。新幹線は混むから既にねらいの側の席がしばしば埋まっていることは仕方がない。だとしても毎回間違うのはどうしてだ。選択できるチケット購入時に毎回あの緑色の機械の前で一瞬だけシミュレーションして買うのだが、毎回日当たりのいい方に座ってしまう。なんでだ? 俺の中の日本列島が逆方向に配置されてるのか。

長距離移動時の日当たりはできるだけないにこしたことはない。当たり前であろう。だれがわざわざ炙り焼きになりに行くのかね。気持ちよくお休みするにしろスマホ見るにしろ何か仕事するにしても強すぎる日光が視界にちらちら入るのは辛いを通り越して痛みすら感じる。

切り開かれた高速道路とちがい、ローカル線は人の多かった場所を通るように線路は延びているので、ちらちらと見え隠れする集落を貫くように延びて、併走しているあの道は昔の街道なのかしらと考える。待ってろよこんど自転車で走りに行ってやる。涼しくなったらな。

最近ハマっているスーパーの話

数年前のエントリで、退社から帰宅までの間で大別して二つのルートがありそのどちらにも一長一短のスーパー群あるので帰り道に悩むみたいなことを書いた記憶がある。

今年に入ってから家からちょっと遠いが帰宅ルート上にあるので通いやすい、とある地元スーパーが完全にそのシェアを、つまり俺のシェアを占めつつある。小さいし品ぞろえもはっきり言って悪いのだが、精肉に独自のルートがあるのかめちゃくちゃに安い。この一点でもう離れられない体にされてしまった。

なんたって我が家には食べ盛りの子供たちがおり、食べ盛りの中年もいる。肉の安価な入手手段は常に模索されているのである。しかも上の子が毎朝ソーセージと目玉焼きを食べるため、某メーカーの大袋をたびたび購入しているがここはほかの店舗に比べて\200安い。

ちなみに鮮魚も地元の魚屋さんがテナントで入っているので地元の漁港からそこらへんでとれる魚が揚がってくるのがアツい。きのうはめちゃくちゃいい型の鯵が入っていて塩焼きで食べたが身が厚くて旨かった。

たぶん今日も行く。行くのだがこの店に寄るルートは本屋が泣くて困る。別ルートに無理矢理乗り換えるか家の近くを行き過ぎて一旦引き返す道くらいしかない。アニメきっかけで読んだ小市民シリーズの続きを買いに行きたいのに。

五類

五類である。
五類のせいで一週間家族4人、一つ屋根の下にこもって過ごしていた。最近はありがたいねネットスーパーで届けてくれるから。

六日の夜に縁日的なものがあるからお友達といきたいと上の子が言うのでそれならと、もう家族全員で出かけた。小学生なのだから友達と示し合わせて行けばよかろうだと思うのだが時代は変わったらしい。市の中心部で開かれるお祭りにバスに乗っていくなんて小学生ならやったものだぞと少年の頃の俺が言う。バスでも路電でも乗れ。岩崎矯正歯科の宣伝なんて未だにソラで歌えるぞ。

今回は小遣いを子供たちに握らせて勝手に使わせた。自主性を育ませねばならない。さっさと使う先を決めてくじ引きでいかにもお祭りなアイテムを振り回していた下の子と、悩みながらちまちまと使って最終的におそらく余った分を懐に入れた上の子とでキャラクターの違いがでるものだ。パパの小さい頃はたぶん上の子と同じムーブしてたな。

ちなみに発病直後にこのお友達の方に連絡したら無事であったとのことなのでよかったよかった。

月曜日の朝から子供たちが何だか調子が悪いと騒ぐので休ませた。今から思えばあれはファインプレーだったのだろう。学校への集団感染を未然に防いだファインプレー。世の中、未然に防いだ物事には誰も関心を寄せないものなのでせめてパパくらいはホメてやろう。

冒頭に書いたネットスーパーについてだ。頼んでから届くまでにかなりの時間を要していたので、おそらく同様に五類に伏せていたご家庭が近所に多かったものと推察する。また、注文したものと微妙に違うものが届くことがあった。注文時とピッキングのタイミングがずれればそういう事態もあるのだろうと寛容が必要だ。そして当然だが値引き品は入っていないのでやはりお高くついてしまう。

おれ極薄切りの豚バラ肉なんて初めて買ったよ。

ある程度回復して体調が戻っても外出を控えていてそうなると楽しみなんて三度三度の食事くらいしかなくその点でもだいぶ使ってしまった。極薄切り豚バラ肉でつくるキムチ鍋(こくうまキムチを贅沢に投入)おいしかったです。

肩たたき券よりも、水筒洗い券がほしい。

食洗機が導入された今、食器洗いなどものの数ではない。というかもともとそう嫌いな家事ではない。無心で手を動かしていればいつかは終わるのがわかっているし、目に見えて洗い終わった食器が積み重なるのが精神的な報酬として機能している。

水筒の毎日の準備こそが、今一番やりたくない家事のトップである。

単純に手順が多い。
カバー外す、カップ外す、注ぎ口外す、パッキンを
バラす。洗い始める前でこれだ、飽き飽きする。カップ・パッキン・注ぎ口は食洗機にお任せしているが、パッキンが流れていかないように小さいざるも買っている。

水筒という奴は形状も厄介だ。ブラシを使わないと中までしっかり洗えないし、洗った後内部をすすぐのになかなか洗剤が落ちきらない。麦茶なのだからそう言うものだとはわかっていても、毎回注ぐ度に泡が立つのをすすぎ残しによるものではないかと疑っている。

麦茶と言えば別口に麦茶の準備とその容器の洗浄まで必要なのも閉口する。蓋あけて麦茶パック捨てて、水筒と同じくボトルの中まで洗わねばならない。こっちは手が入るタイプのボトルにしているからまだマシ。考えてみれば俺がまだ子供の頃はパックではなくてカップで計量してヤカンで煮出し、麦を漉して瓶に詰めていた記憶がある。そのころから比べたらパックがあって水出しでいいという長足の進歩だ。サンキュー鶴瓶フォーエバ鶴瓶

洗い終わって乾かしても今度は朝にこれをもう一回組み立てて麦茶を注ぎ、カバーを掛けて渡さねばならないのである。朝は忙しいしそれ以外にもやることがあるのにこの組立作業が脳のリソースを食っている気がする、だいたい箸の準備を忘れて出かける前にあわてることになる。

ここまでやって最終的にこの麦茶が全く手も着けられずに戻ってくることもある。気温だとか授業の内容にも寄るので誰かのせいにしても始まらない。また次の麦茶ループに挑まねばならないのだ。俺と麦茶のエンドレスバトル。せめてもの救いは鶴瓶の麦茶はパックあたりで考えるととてもお安いので多少無駄にしても俺の懐はそう痛まない。サンキュー鶴瓶フォーエバ鶴瓶

つまりだな、うだるような暑さの夏の昼下がりに薄暗い畳の部屋で麦茶ックスというシチュエーションはとてもいいものだが、行為に没頭するうちに溶けていってしまった氷もぬるくなったその麦茶も誰かが用意しているということを忘れないで飲みたい。家族に、乾杯。

味噌汁は沸騰させるとうまい。

前々から思っていたんだが、味噌汁って沸騰した方がうまくないか?

先週の金曜日だったか、とりあえず晩ご飯を家族に出して、それから自分のをよそおうとした拍子に何らかの用事に意識が向いて、しばらくしたら部屋中に味噌のいい匂いが漂っていてやらかしたことに気がついた。味噌汁を沸騰させてしまっていたのである。

味噌汁を沸騰させることは悪であると料理をする人はみんな言う。家庭科の教科書にも書いてあるし、料理番組でもそう言うし、インターネットで検索したらあちらこちらのサイトが口を揃えて言うんだ。「味噌汁を沸騰させてはならない」と。土井先生はどうかな? もしかしたら「それでもええんです」って言ってくれるかもしれない。

正直に白状すると俺は沸騰して煮詰まってギュッとした味になるのが好きだ。単純にうまいと思う。もともとアチアチで味噌汁を飲みたい質で、家族の分はともかく自分用は一回煮えばなまで温めて注ぐことにしている。そのまま味噌を溶いただけの味はちょっとソリッドな味噌の味がくるが、沸騰してすこし煮詰まった味噌汁には旨みと甘みを倍くらい感じる。のどの奥にこっくりとした旨みが通過していくのがたまらない。

また、煮詰まったことで少しだけとろみが生じているのもいい。味噌の風味が沸騰すると飛ぶと言うが、煮詰まった味噌汁からはとってもいい匂いがする。特にジャガイモとかサツマイモを煮たときは煮詰めた方が絶対にうまい。あと大根。根菜系は全部こっちの方がおいしくなる。そういや実家の豚汁は沸騰していた気がする。

だいたい火が通った味噌がおいしくないわけがないのだ。おにぎりに味噌塗って作る焼おにぎりだってちょっと焦げてるのが香ばしくてうまいし、土手鍋だって平気で沸騰させるし、鯖の味噌煮だって沸騰させるじゃないか。

家族はふつうの味噌汁を好むからこれからもそうやって作るけど、最後に自分の分は沸騰させてから飲もうと思う。おれは孤独な味噌汁レジスタンスだ。