てのひらを、かえして

知的怠惰の集積地よりお送りする、手斧と料理のふんわりブログ。

土曜昼の飯

土曜昼の飯ってのがまた悩みの種で、一応は人の親であるのでせめてなにか調理したものの方がよかろうという理念の元になんらかの料理を作っているのだがだいたい食材も乏しくて買い置きの袋麺に野菜炒めをのせるとかあり合わせの材料でチャーハンとかになりがちである。複雑なことに子供たちいわくせっかく食べるなら手料理の方がいい、らしい。

単純にめちゃくちゃ食べるので料理が大変過ぎる。炭水化物は米でとってくれ麺にすると途端に調理量が増える。単純にフライパンにのりきらない。いや乗せてるし火も通しているしおなか壊したりはしていないんだけど。

ということで先日はギリ子さん2巻に出てきたケチャッピーをつかってナポリタンにした。スパゲティ300gを大鍋で湯がいてその間に大ぶりのフライパンで野菜とウインナーを炒めておいて茹で上がった麺と併せてケチャッピーをかけて焼いていく。確かにケチャッピーには小さい具材が入っているしもちろんピーマンやベーコンの味がしてくるので驚いた。この量のスパゲティに味付けするにはチューブのおよそ半分を要したので昼飯に使えても2回であることがわかった。ギリ子さんに出てくるだけのことはある。これは確かにうまい。

ちなみに150gと250gに分けて出したが双方完食、しかも上の子が足りないと言い出したので冷凍ブロッコリーと鮭をご飯と一緒に炒めた焼きめしもどきを作らされた。材料らしいものがもうそれくらいしか残ってなかった。まあブロッコリーはなんかのタンパク質と併せて焼いてご飯にのっけたらだいたいうまい。

怒りについて。

これはおれの実感であってなんらかの裏付けがある話ではないし、医療的な云々に関しても全く責任はとれない話をする。

怒りというのにはどうも道筋があって、外部からの不快な刺激を受け取ったときにもともと自分の中に抱えている鬱屈とか諦めたこととか、そういうのに結びつけて、自分の中で正当化できる理屈が整っているとものすごい早さで接続して怒ることができるようになる。んで、この怒りってどこにも発散先もないし解決法もないので頭の中をずっと占領してぐるぐると回り続ける。疲れてしまうか不快な刺激がなくなるまで。
インターネットミームになっている「依存症のサイクル」の画像そのまんまだ。ほかのことだと迷いがあって理屈を直結できないんだけどこういう場合自分の怒りに正当性(本当に正当である必要は無い、自分の中で理屈が通っていればいい)を確保しているから何も遮るものなく結論に到達できてへたすると単語を見ただけで激怒することができる。本当にタチが悪い。

しかもこの怒りの道筋は繰り返すうちにどんどん太くて早くて通りやすい道になっていく気がしている。この怒りの高速道路が今の自分では片道六車線くらいのアウトバーンになっていて、しかもループするたびに自分の正当性を再確認するからここで少し気持ちよくなっているところもあってそれがこの怒りの回路をを手放せなくなっていた理由なんだろうけど、自分でも驚くくらい瞬間的にかつ理不尽に怒りの感情が盛り上がることがあってこわい。

ブコメとか各種SNSで吐き出しちゃうこともあるのでいろんな人に不快な思いをさせて来てる自覚はあります。ごめんなさい。

最近ようやく自覚することができて手前で止めることができるときもあるけど、この怒りやすさにどうやって向き合えばいいのかと困っている。将来ボケた時に手がつけられ無くなりそうで怖い。

最近の音事情。

暮らしがどうこう言うブログエントリを書いた翌日にロードサイドの唐揚げ屋でクソでか唐揚げとご飯だけの弁当買ってきて、家族の晩御飯をそれで済ませました! PTAの日の保護者なんてそれでいいんだよ。

DAISO¥1,000のイヤホンを洗濯してしまってへこむ。

これ多分もうあきらめて小型家電処理ごみ箱に出しに行かなきゃだよな。我が家には故障済み骨伝導イヤホンが10本ほど溜まっているのでこれも一緒に投棄しにいこう。
以前のDAISOイヤホンからすると驚くべき進化、なんと音量が調整できる。接続が途切れない。仕事中に耳栓兼イヤホンとして使う分には完ぺきだったのにな。

骨伝導イヤホンのありがたみ

先日骨伝導イヤホンが電気的な不調(屋外・汗・ヘルメットへの物理的な接触)で故障し、使えなくなったため、骨伝導イヤホンがない生活をしばらく甘んじている。だって高いんだもん。なくなって初めてわかるその便利さについて話がしたい。孝行をしたいときには親は無しってやつだ。

耐久性の話。

汗や雨、湿気でどうしても外装の隙間から水分が入って、中の回路がショートして使えなくなる。というのがこの手の製品をヘビーユースした場合の末路だ。Shokz製品でもおれの生活には1年ちょいしか耐えられない。それでも次購入するならShokzを洗濯する選択するだろう。音響面で遜色ない同等の他社機種でも耳掛けのアームがヘルメットに接触して破損する。長くて数か月しか持たない。

家事をやるのに耳が空いていないのはあり得ない。

家事をやりながらいろいろなコンテンツを消費していきたいところだが、合間合間に差し込まれる家族からの用事を無視することはできない。あと個人的に料理中に耳が空いてないのは怖い。

耳が空いていないのはありえないんだけど、隙間時間にゲームをやるにはイヤホンつけ外しするの嫌だ。

そもそもの話なのだが目が覚めてメガネの次に骨伝導イヤホンを装着していた日々は隙間時間にゲーム開始してもそのままシームレスにゲームの音楽が聞こえていたのに今ではゲームの音楽を聴くためにイヤホンをつけなきゃいけない。これはめんどくさい。スピーカーで聞けるだろうけど自分のためのゲームなのに家族にその音を聞かせるのはなんだか容認しがたい侵害のように感じるのだ。自分に聞こえる分にはなんとも思わないのに。

簡易ヘッドセットとして機能する骨伝導イヤホンはやはり便利。

電話を取り逃すことがないし、ボイスメモも取りやすくていい。今後はマイクだけを無線でつないで口述筆記でいろいろやれないかを考えている。ちなみに職場でどんどんOPENCOMMの愛用者が増えていて恐ろしい。俺もそろそろアンバサダーに就任するころかもしれん。リモート会議多い系の職種や移動の多い職種で好まれている。

耳たぶをはさむタイプのオープンイヤーイヤホンの安いのを試してみている。

こないだドンキで値下げされていたのを買ったのだ。気にせず寝っ転がれるのはとてもいい。
しかしながら音声の、特に人間の言葉の聞き取りやすさは骨伝導にかなり軍配が上がる。音響としてはまた別だけど。

今日言いたいこととしては「ただでさえ味のしないFGOのイベントクエスト周回で、音までしなかったらマジで味気ない」です。お疲れ様でした。

「くらす」について(シロクマ先生へのお返事)

せっかくシロクマ先生に言及してもらったのでお返事したくpomeraを執ります。失礼なところがあったらごめんなさい。ワインのつまみに齧られるのは怖いです。

先生のエントリのタイトルで、特に「規範」の部分に引っかかっている人がけっこういるように見受けましたが、自分としてはあの部分、先生のご著書「人間はどこまで家畜か」でおっしゃられていたようなことで、「ていねいな暮らしという規範」は「家畜化」に近いところにある、と思われているのではないかな? と読みました。であればこそ先生は

私は……ええと……さらなるていねいな暮らしを希求しています。

とお答えになったのであろうと考えました。先生のご著書での立ち位置もそういうふうであったように思います。

「くらす」というのは博多弁の場合*1を除いて、もともとある程度の「ていねいさ」を含むものです。自分としても確かに希求はしていますが、高みを目指すような希求ではなく一個一個の「くらし」を拾い集めて面積を広げていくような進め方を目指しています。「ていねいな暮らし」というフレーズにはもうイメージがつきすぎて自分の手にはあまります。

「おれたち」の「無頓着さ=男らしさ」と、「規範」が女性ジェンダー側に寄ってきているというあたりについて考えているウチに思いついたのですが、この「男らしさ」というのはもしかして「メシ」「風呂」「寝る」で完結していた専業主婦のいる昭和の家庭が成り立たせていたのではないかということです。
だとすればそれがなくなった令和では女性よりになってくるのも当たり前で、もしかしたらそれ以前ももっとニュートラルなあたりに規範があったのではないでしょうか?
着心地のいい服、一番風呂、一品多いご飯。今から考えればずいぶんとマンモーニだった昭和の男たちの子供として生まれ、その恩恵にあずかっていた「おれたち」が劣等生になるのも仕方ないのかもしれません。そんなの知らない令和の若者たちは時代に適応できるのも頷けます。

自分がこういう「暮らし」に興味を持つのは、せめて自分一人になっても生きていけるようにしよう、という意識がどうしてもおのれの中に危機感としてあるからなのですが、そのおかげで今の自分の家族がまあまあ幸せそうに生きていけているのでそれはうれしく思っています。

言及ありがとうございました。これからも適応していけますように。

*1:暴力。例:「きさんくらすぞ」(あなたを、暴力です)

おれたちはどう暮らせばいいのか

まず「そば打ち、スパイスカレー、自転車」なんて言っているブクマカは完全に的外れだから無視するとして、ここに書かれている増田の情報から推測するとFireって一定額の資産を作ってそこの運用益とか利息で生活していくってことだから、資産を食いつぶしてしまったらそこで人生が終わりと考えるととにかく目減りは抑えたいはずで、そうすると質素かつ快適な「暮らし」に目が向くのはわかる。文中にある「こんな感じの生活で、月々の生活費はこれぐらい」もそういう点で着目したのではないかと思った。余裕ができた、というのは時間の余裕だと解釈している。

で、男性向け生活情報の少なさだ。自分としては生活自体にはそう性差はないので基本的に主婦向け雑誌を情報源としてよいとは思う。自分も小学生時代母親や祖母が買っていたESSEやオレンジページを読み込んできており、今の生活の基礎はあそこと家庭科の授業で培ったと思っている。

男性向けの生活コンテンツというと一時期やってた「家事ヤロウ」というテレビ朝日の番組で、ゴールデンに来る前の深夜時代は家事初心者の男性向けのコンテンツをやっていてあの時期のアーカイブがTVerあたりにあるととてもいいのだが。番組がウケてから以降はほぼ料理情報に移行していったのはとても残念だ。大体今インターネットで見つかりやすい男性の生活情報は「食」に偏重しすぎている。わかりやすく快につながりやすいし情報としてのフィールドが広いからコンテンツに困らなくて済むので皆そちらに流れていく。

「家事ヤロウ」は第一回が「たたみ方」だぞ。3回目が「ご飯を炊く」だ。いいよな、基礎の基礎だ。これを男性芸能人が真面目に、馬鹿にされることなくやっていた番組で生活や暮らしに興味がある男性も入りやすい取り組みだったと思う、というのも男性が教えを乞うのにやはり同じ男性が悪戦苦闘しながらやっているコンテンツというのはプライドがのどにつかえなくて飲み込みやすい。ここの飲み込みやすさは大事だと思うのだ。

ここから先は持論を書いていく。これは男性が不幸になる素の話なのだが、基本的に男性は高いHPとそこそこの装甲値(防護点etc…)があるので微細なダメージを無視して日々を生きていくことができる。しかし、ダメージを無視できてもダメージが入っていることで感じ続けている不快さに目を向けることがあんまりない。この話は以前もここで書いた。どういうんだろう、ごく微小なセルフネグレクトをずっと続けている状態に男性はいて、ともするとそれは「無頓着=男らしい」の文化によるものではあって、それこそ持っていくところにもっていけば「トキシックマスキュリニシティ」として唾棄してもらえる。じゃあなぜその有害な文化が今現在まで残っているかというとそれはそれで現在まで残るだけの要請というのは社会全体からあったからなんじゃないかとも思うがそこらへんは専門家が説明してくれると思う。大事なのは今おれたちは不快であることを無視しがちであるということだ。

「濡れた手はタオルで拭くと乾く、服で拭くとしわができるし湿っていて不快」とか「汗をかいた下着は着替えるとさわやか」とか「家に帰ったらゆったりとした室内着に着替えたら楽」とかは少なくとも自分自身は結構最近までわかってなかった。

こういう小さい不快を拾い上げた生活改善点としていうのなら昨年自分は下着を一新して着心地のいいTシャツにした。昨年のベストバイエントリにも載せたのだが、着心地を求めて分厚いシャツを求めていった結果、「オンス数」というパラメータにたどり着いた。オンス数がでかいと糸が太く、結果的にシャツが分厚くなる。分厚いシャツというのは汗をよく吸い、肌にあまり密着しないのでいつもサラサラ感がある。反面どうしても生地の分厚さの分重く、糸の太さゆえのごつごつ感が否めないので耐えられない人間もいるだろう。これに「汗をかいたら下着を着替える」を組み合わせることによって飛躍的なQOLの向上に成功している。

ちょっと本題からそれたか。増田の望むようなロールモデルとして、ほんとは「家事ヤロウ」をNHKでテキスト付きの教室番組として流してくれたらいいんじゃないか。もしくは男性向け地味生活漫画をまずはウェブ連載でいこう。ジャンプルーキーやジャンプラでは難しいか、となジャンで「やめ好き」の隣に掲載されるといいのかもしれんが現実的なラインとしてはコミックDaysでの掲載ならありうると思う。ブルーオーシャンだろうかウェイストランドかもしれないが。誰か描いてくれないか。

個人的に欲しいと思う情報
・花の飾り方:うっかりすると花束とか買ってきそうなのでほんのちょいでいいのでなんか飾りたい。飾るのはいいのだがそれを実現するためには食卓に調味料を林立させるのをやめてすっきりとした食卓を実現しないといけない。家のあちこちに彩を飾るためのスペースがいくつかあるのはわかっているのだが、買ったアクスタなんかをこう並べていくと祭壇と化す。生活の彩りといえば言えるか。季節ごとに並べ替えてみるか。

・いい椅子:俺たちは家の中でどこに座ればくつろげるのか。フローリングに直に座れば腰に来る。食卓の椅子ではくつろげない。ソファの上を片付けろ。たしかにそれはそのとおり。

追記:単純に女性に頭を下げて教えを乞え、それはそうの話。細かい生活のtipsはいつもそうしろと配偶者に怒られてる。着替えるのとか。

ボトルが割れた

泥水をすすっている。泥水というのは比喩で、先日コーヒー豆の使用割合が低下したために分類がコーヒーからコーヒー飲料に美味しくなって再登場したあれだ。もとからそう美味しいものではなかったがコーヒー風味を出すための香料が特に鼻につくようになった。コーヒーをちゃんとたしなむ人からするととても耐えられないものだろうと思いながら飲んでいる。
ちなみにこのコーヒー飲料、カフェイン量だけは以前と変わらない数値のままなのが何よりも恐ろしい。そりゃあまあこれを飲む人って仕事中の眠気払いとして飲んでいるだろうから正しく顧客のニーズを満たしているのだろうがなんだかなあ。
ではなぜカフェイン量以外取り柄のないものをのんでいるのかというと今日水筒を忘れたからだ。水筒には水出しコーヒーが詰めてあった。数年間毎年夏場に愛用していたハリオの水出しコーヒーボトルを不注意で割ってしまい、SUSのフィルタ部分は無事なのだからとボトル部分だけ買えないか調べてみたら製品そのものが絶版になっていた。某ショッピングサイトで1リットルだと銘打たれていた水出しボトルを購入したら実際は1リットル入らなかったが二人分の水筒にはまあまあ入る量だったので結果オーライとする。
割ったものは仕方ないのだがあのフィルタはなかなか見事なつくりなのでそのまま捨てるのも何か忍びないとおもっている。取っ手を追加してラーメンをゆでた際のザルとして使うか、水はけはあきらかにいいのであの中に土でも詰めて鉢植えとして第二の人生を歩んでもらうのも悪くはないかもしれない。

薬屋への愚痴りごと

ここ数年、持病を抱えて月一で通院する体になってからと言うもの、薬をもらう必要があるので併せて薬局にも通うことになった。家の近い薬局、ショッピングセンターの薬局、クリニックの門前薬局と通う薬局の変遷があったが俺はこの薬局に一つ提言をしたい。

手すり兼用でもいいからレジの前に立った状態で使えるサイドテーブルみたいなやつを設置してくれ。

いくら門前薬局だとしても、いやむしろ門前だとクリニックで支払いを終わらせて処方箋と領収書を渡され、どうせすぐ渡すんだからとこれらの書類を手持ちのま薬局に歩いて行くことは想像に難くない。というか自分だってそうする。誰だってそーする。
そこでたどり着いた薬局のレジの前で要求されることは何か? マイナンバー保険証の提出と顔認証とお薬手帳、処方箋だ。マイナンバー保険証なんて目隠しのついたケースごとさらにケースに入れているので鞄の中からとりだしてそれを剥いて機械に入れて顔を(俺のだ!)さらす必要がある。明らかに腕の本数が足りない。ペラの紙のまま渡された領収書を鞄に入れようとするとそれはそれでかさばるのでなかなかうまく入らない。阿修羅のごとく、なんて無理よ。処方箋はいいとしてもマイナンバーとお薬手帳は鞄の中なんだから鞄を開いて支える腕も必要で瞬間的にこの小脇がとても混雑して薬局に来たことをいつも後悔する。たのむ、頼むからレジ横にそういうサイドテーブルを置いてくれ。一回鞄を置いてお薬手帳とマイナンバー保険証を取り出させてくれ。

やっぱマイナンバー保険証がよくねえよ。お薬手帳と別なのがそもそもよくない。おれは!医療情報の提供に! 全部許可してるだろ! じゃあ俺への投薬の記録は何なんだ、それは医療情報じゃないのか?! お薬手帳いらないはずだろそれは! 最近はお薬手帳もデジタルでじゃねえよそれなんか某パークとか某サービスに紐付いててるのそれもおかしいだろ。デジタルにするならマイナンバーに紐付いてあれよ! 

あと、薬局の業務フローについてもどうしても気になる。一回呼び出して服薬指導しといてどうしてレジに移動させる、そこで会計でいいだろ三店方式か?! 「みなさん服薬指導が終わったらあちらのレジに行かれますね」か? いやこれに関しては行政の管轄的な問題で実際に三店方式しか解決する方法がないかもしれないから黙っていた方がいいかもしれない。この件に関してはモヤモヤするが矛を収めることにする。

そんで会計だ。会計に行くときに服薬指導ブースでお薬とお薬手帳を渡されてるわけ、そんで会計しようとするとそこでまた財布を取り出さなきゃいけないわけじゃない。また手が混雑するのよ。そんでお金出したらおつりと一緒に領収書がしかも普通のレシートより明らかにでかいやつが出てくるわけよ。ほんとこのタイミングばっかりは手元が混雑するのでそういうわけで頼む、レジ横にサイドテーブル的なものを置いてくれ行きつけの薬局よ。