てのひらを、かえして

知的怠惰の集積地よりお送りする、手斧と料理のふんわりブログ。

「いつかやる」は結構強敵だ、という話。

自分のやりたいことと向き合うのは実は結構しんどいことだとおもう。自分の中に思ったよりストッパーがあって、本当にやりたいことのはずなのになかなか手がでない。
「まとまった時間があったらやろう」は結局まとまった時間があることなんてないし、そんな時間があっても日々の生活に浸食されてすぐなくなってしまうので予定に入れて細切れでもやろう。そういう話はこないだのエントリでやった。いわゆるGTDで言えば「いつかやる」のリストに放り込んだまま結局手を着けないもろもろのタスク、だ。それに関して自分なりに感じたことを書いていく。

「いつかやる」今これに手を着けること自体が「たのしくない」のが原因ではないかと最近疑っている。
俺の理性は、「これをやりたいやったら楽しくなるぞ」と訴えかけてくるが、俺の本能は「酒の方がいい」「寝た方がいい」「ゲームしよ」とそっちに流れるのだ。いわゆるサボローってヤツか。
だってね、この「いつかやる」ことってさ、もしかしたらやってもやってもできないかもしれない。本当は向いてなくてもしくは能力がなくて、ちっともうまくなれないかもしれない。

こないだも書いたけどこのままやらない方が楽だしちょびっとだけ楽しいままだもん。自分がだめなヤツって思い知らされなくていいし。畢竟何かをやるときにストッパーってこれで「何もできないだめなヤツ」を突きつけられることから逃げてるからだめなんだろうな。

仕事だったら「やらされたことだから」って逃げ道もあるしその逃げ道があるからとりあえずやってみたら以外とこなせる業務だったりしてうまく行くこともなくはない、むしろうまくいくほうが多い。

この「いつかやる」を「やったら楽しい」にどう持って行くかについても本当はGTDの本やタスク管理の本に書いてある。タスクが大きすぎるので、どう進めるかを小さくわけて、やり方がわからない、どこに行ったらいいかわからないなら調べる、必要なものがあるなら買う。そうやって進めていくことができる。
仕事でだってそうやってる。お金がないからやらない。申し分のないいいわけですね。お金がないんなら家族と相談してどう工面するか考えたらいいんだよ。

でもここにものすごい大きなエネルギーが必要なのを感じる。どこがいけないんだろうな。
もともと自分に無精者なところがあるのは認めるし、何なりと言い訳して自分のことに向き合わなかったことも認める。どこかセルフネグレクト的な部分もある。

もしこれを何年も前から自覚してやりたいことを広げていたら、今この向き合いつつある「じぶんのこと」にかんじるこの抵抗感をもっと薄く、もっと行動的に生きてくることができていたのだろうかと悔いを感じつつ終わる。