てのひらを、かえして

知的怠惰の集積地よりお送りする、手斧と料理のふんわりブログ。

日記231019 筑前煮とフィクションのアラについて。

「季節の変わり目」が俺の中で済んだのか、気持ちが少し持ち上がってきた。どちゃくそイヤな東京の現場への出張もいよいよ今週末に決まって、日曜を一日無為に過ごすのも確定したのである意味覚悟が決まったのかもしれない。

「〇〇が××してないから萎えた」という表現をねえここしばらくのファンタジー論争の端々で見かけて思ったこと。

「アラを見て見ぬふりして楽しむ」ってのはやっていないのか。たとえば宇宙戦艦ヤマトだって島が死んだり生き返ったりテレサと恋仲だったりそうじゃなかったり真田史郎が生きてたり死んでたりサイボーグだったり沖田艦長が誤診だったりしたじゃないか。

いや本当にあれだけ語り草になって後年懐かしアニメの感動シーン的な扱いで「地球か、何もかもみな懐かしい」ってやってたのに実は生きてましたって完結編でやるの本当にひどい。初見で生き返ってきた時にやはり思い起こしたのは「愛の戦士たち」のクライマックスだ。波動エネルギーも使い果たし、あまたの犠牲を払い、ようやく白色彗星帝国を爆破したと思ったらまだ母艦が無事で満身創痍弓折れ矢尽きたヤマトと古代に「まだ命があるじゃないか」って言ったよね!! 生きとったんかい!

そういや懐かしアニメの感動シーン100連発みたいな特番やらなくなったね。今はもう配信で簡単に見れるし権利的なハードルをうんぬんするよりおもしろ動画をあさってきた方が早いのか。ああいう番組が消え去っててよかった。あのノリで「リーンホースJr.特攻」とか流されたら恥ずかしくて死んでしまってたかもしれん。

見て見ぬふりをする、なんとか理屈をつける、この世界はこういうものだと納得する。おれは「まぶしくきらめくチャーミングな点だけを見つめてアラの部分は周辺視野で流す」方式で生きてきた。

ここでいう「チャーミング」は故淀川長治氏の「どんな映画にもチャーミングな点がかならずある」を受けてのものである。特撮だっていろいろあるじゃん。スイッチ周りとか、インジケーターランプとか、そこら辺に売ってるパーツなのちょっとそれどうなのヒーローたちの持つ武器に比べてあまりにデザインがショボいだろとか思うっしょ。必殺の爆弾なんだろなんでパイプにランプとむき出しのコードなんだよもっと強そうにしろよ使い捨てだからいいのかよ、とか、マスクマン冒頭の空中浮遊シーンとか子供心にこれ本当にいいのかしらとか思わなくはなかったよ。嫌いなシーンは飛ばして読んでた本なんていっぱいある。

今は手近にフィクションがあふれちゃってて、すぐ他に行けるからそういうことしなくていいじゃない。ほかに行けばいいのよ。それは本当に萎えてるの? 「〇〇があると萎える」じゃなくて「萎える要素があるのに目が離せない」じゃない? 「萎える要素があるけどここはいい」じゃない? あとおじさん、もう新しいものに入っていく元気がないから酸っぱい葡萄してるんじゃない?

酸っぱい葡萄に抗おうと今季は朝活として飯作りながらアニメ見るようにしました。アークナイツと16bitとSPYFAMILYとウマのゴルシ回しか見れてないが。

これはサムネ用筑前煮。
水煮の根菜と鶏肉を薄めためんつゆで煮て、汁がなくなるまで見張ったら完成。